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遠山六郎公連の遺児と久保田

toyamaketokubota れきし

「長浦散歩:かまくら街道」で「遠山家墓所」をご紹介しました。碑文には祖先が平将門に関連する人物であることが記されていました。それは「遠山六郎公連」という人であり、その嫡子「太郎頼利」が遠山家初代とされています。

さて「遠山六郎公連」をネットで検索すると興味深い記事が浮かび上がりました。

承平年間、将門の旧臣・遠山六郎公連が将門に諫言したが用いられず自殺した。その遺児が所々漂泊してこの里に来て、陰山と姓を変えて土着した。正暦三年(992)、安倍清明の筆跡のある杉の木を使って、四足門を建て「佐々良門」と称したといいます。この佐々良門が、この地の正福寺近辺にあったと思われます。

出典:将門ブログ

「この里」とは久保田のことです。

平将門に「諫言」したというのですから、権力に決しておもねることのないよほどの人物であったことは間違いないでしょう。恐らく取り巻きの重臣に責められ自害にまで追い込まれたものと思われます。新皇(天皇)として東国の独立をめざした将門がもし彼の言を受け入れていたら歴史が変わっていたかもしれないと思うと胸が躍ります。

「遠山六郎公連の遺児」と「佐々良門」の関係が不明瞭ですが「承平年間」は西暦931年~938年。遺児が五十数年後「佐々良門」を建てたとしても無理のある話ではありません。

ちなみに同ブログでは「陰山と姓を変え」とあります。

「袖ヶ浦町史 通史編 上巻」に掲載されている「第一一表 久保田村領主の推移一覧表(434頁)」によると最初の項の1624(寛永元)年に「与力衆七人組給地(地方代官景山半左衛門)」の記述があります。「陰山」と「景山」。表記は異なりますが何らかのつながりがあったのではないかと想像力を膨らませてみるのもおもしろいでしょう。

一方「里山を歩く会」が編纂した小冊子によると

【久保田の由来】
伝説では、初め「久誉田の里」と称し長浦丘陵が代宿から蔵波へ続く中で久保田川に沿った「窪地」に形成された集落の事で、 承平年中(931~938年)平将門の一族「遠山太郎頼利」がこの地に移住して来て「久保(誉)田の里」と称したと伝えられている。

出典:里山を歩く会「久保田散策道周辺の自然・文化遺産」

いずれにしろ遠山家は久保田と実に縁の深い一族と位置付けることができます。

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