ながうらら | むかし長浦で

昭和38年長浦駅周辺での子ども時代

kokutetsuoyajisan2 おもいで

こちらのページは当サイト「おもいで:わたしの長浦物語-むかし小学校に潮干狩りの日があった」への国鉄親父さんのコメント及びその後のメール寄稿をまとめたものです。また国鉄親父さんがお持ちの当時のお写真も掲載しております。「長浦写真:昭和37年前後の長浦駅周辺」シリーズもぜひ併せてご覧ください。

 

 

昔の長浦のお話、懐かしく拝見しました。自分は、1963(昭和38)年まで長浦駅の近くに住んでいました。小学1年生でした。駅前に床屋があったのだけ覚えています。今はないみたいですね。線路の海側は、田んぼが広がっていて今となっては何の面影もありません。そこでは海苔の乾燥日干しの風景もありました。県道沿いにあって階段を登って行った小学校がもうないと、最近知りました。遠い思い出です。

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(小学校前の階段横には)お店がありました!揚げパンをたまに買ったのを覚えてます!自分は、国鉄官舎に住んでいて、駅の木更津寄りの線路の前です。田んぼのなかに小川が流れていて、ザリガニやおたまじゃくしを取ってましたねぇ。駅前の道に小さな駄菓子屋さんもありました。駅の山側に、屋根のついた見晴らし台のようなものがあって、そこからちょうど真下に自宅があり、登っては家にいる母親に叫んでましたね。
今はもう両親もいませんが、これを書いていて涙目です。あの頃の長浦をご存知の方が見てくれていたらうれしいですね。

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学校行事としての潮干狩りはやった記憶はないですね。長浦の海はまだ、埋め立て開発前の頃だったと思われます。小さな漁船が何隻もあった内港みたいなところで父親とハゼ釣りしましたね。海の端にコンクリート作りの沖に伸びた桟橋があって(かなり崩れていて先まで行くのは怖かった)そこで泳ぐ猛者もいましたわ。あと記憶が曖昧ですけど、大きな鳥居があったような記憶があるのですが、、。6歳児の記憶ですからわかりません。

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自分が生きているうちに、長浦のよき頃の事を残しておいた方がいいのかな。駅の木更津よりに踏み切りがあって、その先は小道と小さな川があって海に流れ込んでいたと思う。その川のそばに同級生の家があり、大きなカニがたくさんいて、捕まえてましたね。長浦のあの潮干狩りのできる海はもうありません。暮らしが便利になり、発展する事は、すべてを遠い思い出だけのものにしてしまうんですね。

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(捕まえたカニは)川だったので、モクズガニでしょうね。遊びで捕まえるだけだったので、食べませんでしたが海に行くと、当時はガザミって呼んでたカニがいてそれは時々味噌汁になってましたね。アサリを取るのは当時はタダだったような気がするのですが、、、。鳥居の近くに豆腐屋があり、母親と来ていたの思い出しました。もうないでしょうね。

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夏が近づいてきて、思い出すのは線路沿いの道のほんと少しの空き地で、ラジオ体操を夏休みの間やってました。当時父親の持っていた、トランジスタラジオを時々持っていって。その夏、同級生がたしか弟と海で遊んでいて、流されたらしくて亡くなったということもありました。湾に通じる水門のそばだったので水門は怖いもののイメージが当時ありましたね。長浦の海岸を埋め立てずに、潮干狩りの場所として残してくれていたらとつくづく思います。

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当時の同級生の方、このサイトを訪ねてくれることを切に願います。お元気でしょうか、皆さん、、、。

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先日、金谷方面に遊びに行った帰りに長浦駅ロータリー側に行ってみました。線路を挟んだ小山、あれが「展望台」ですね。半世紀前におそらく自分がいたであろう、遊んだであろう場所に立ち感無量でした。あの時のものは何も残っていませんが、自分だけしか知らない長浦があることを誰かに伝えたい思いでした。
稲刈りの終わった田んぼに、海苔の日干しのヨシズの台が並んでいて、遊び場にもなっていました。ある日何を思ったのか、干してある海苔をつまみ食いしたことがありました。2、3度やったんでしょうね、ついにバレて父親にビシッと怒られました。悪ガキでしたねー。

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駅の県道沿いの松林、じつはあの後ろには畑があったんです。それほど広い面積ではありませんが、サツマイモやジャガイモを、農家さんがやっていました。ちょっとした洞窟もあって子どもには楽しい遊び場でした。一度サツマイモをもらったことがありましたね。
父親は、山芋掘りを山でやってました。
海もあり、山もあり、いいところでした。手頃な賃貸空き家があったら、年金暮らしでまた住んでみたいです。

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長浦の海には、さまざまな生き物がいました。
ある日、友だちと干潟で遊んでいたら、大人たちが何かを引きずっています。見ると、エイでした。しっぽを入れると1m位はあったかな。もう死んでいました。
じーっと見ていると、「いるか?」と聞いてきました。その魚が食べられるとか、そんな事は考えずにふと「よし、持って帰ろう」と考え、思わず「うん!」と答えました。
エイの鼻先?に縄がかけてあったので、そのまま引きずることに。これがまぁ、重いのなんの。分厚いゴムを引きずっているようなものですよね。
当時は舗装路ではなくて、ほぼ砂地のような道をズルズルと家まで。
母は、びっくり。なんて物を持ってきたのとあきれ顔でした。父が帰ってきて、こんな物食えんよと。官舎前の畑に埋められてしまいました。
今思うと子供のする事は、恐ろしいですね。

それでは、また思いついたら。失礼します。

寄稿者:国鉄親父

2021年9月26日メールご寄稿分まで掲載。随時こちらに追加しますので続きをおたのしみに)

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