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歴史ある正福寺と笠上観音の疫病退散の霊験

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正福寺は上総国札三五番の札所

2021年1月16日撮影

正福寺は長浦にある7寺院のうちの1寺。開基は不明ですが境内にある宝簾印塔に掘られた銘文からは1665(寛文5)年までその歴史を遡ることができます。

2021年1月16日撮影

本堂廊下に掲げられた来迎図には「四国八十八か所を上総に模し、土佐(高知県)清瀧寺を移した上総国札三五番の札所(出典:「市民のための袖ケ浦の歴史」袖ケ浦市教育委員会)」であることが記されており由緒の正しさを物語っています。

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境内裏山には地元久保田の村人が西国三十三霊場巡りに出向いた際、参拝記念として建立した碑が多数存在しますが、正福寺が札所であったからでしょう。当時の人びとの信仰心の篤さを伺い知ることができます。

生徒数21名の久保田小学校

正福寺には昔小学校があったそうです。

明治六年(一八七三) 一一月に、久保田村と代宿村の学区に設立された久保田小学校は、久保田村の正福寺を校舎に、教員は一名、そして生徒数は二一名に過ぎませんでした。

出典:「市民のための袖ケ浦の歴史」袖ケ浦市教育委員会

現在の長浦小学校が尋常小学校として開校したのが1904(明治37)年のことですから、その前身の一つは正福寺の小学校だったようです。

笠上観音の由来

正福寺の正式名称は「笠上山正福寺」ですが、一般には「笠上観音」で通っています。

笠上観音はもともと久保田笠上にありました。疱瘡など皮膚病の治癒にご利益のある仏様であり古くは多くの参拝者を集めていたそうです。それが伽藍の火災により焼失し、久保田小学校が設立された年と同じ1873(明治6)年に正福寺に移されました。

笠上観音の由来は笠上の遠山幸吉家に残る古文書によって知ることができます。現代語にわかりやすく翻訳するとつぎのようになります。

730(天平2)年、行基が関東に修行に赴いた際、ひと休みしようと笠を脱いだところその上に観音菩薩が現れます。その姿を写し山上に安置し、その地を笠上と名付けました。観音菩薩は疱瘡(天然痘)の病を取り除くことで知られ、たくさんのひとが参詣に訪れました。その後、当村の遠山左近という人物が3歳の子の祈願に訪れたところ、高僧の幻が現れ『齢(命)を保つ』と告げます。そしてその子は数日もかからず平癒しました。このことから「笠上の観音」は「瘡神(かさがみ)の観音」とも称されるようになりました。

原文「笠上観世音略縁起 正福寺(遠山幸吉家文書:袖ヶ浦町史史料編II-498頁)」を翻訳

行基と大仏と天然痘

ここで注目したいのは「行基」の名。聖武天皇の命で奈良東大寺の大仏の建立を指揮したとされる高僧です。
当時都では致死率の極めて高い疫病(天然痘)が流行したほか、地震や干ばつ、飢饉、戦乱などさまざまな厄災が起こり、大仏はそれを鎮めるためであったとする説があります。

前述の古文書における疱瘡(天然痘)は恐らく全国へと広がっていたのでしょう。笠上観音が行基の名とともに伝えられたことで、その霊験のあらたかさに人びとは確信を抱いたに違いありません。
行基の存命は668(天智天皇7)年から749(天平21)年とされます。笠上観音を開いたのは62歳のときでした。
彼の歴史を調べると主に近畿地方での布教・社会貢献活動が記されています。関東への遠征が確かめられるものは見当たりません。
ただその可能性として行基が開基であるとする寺院が関東にいくつかあり、その一つが高尾山薬王院(東京都八王子市)であり、また千葉県では補陀洛山(ふだらくさん)那古寺(館山市)です。このことから笠上の地を行基が訪れていたのが事実であることは十分考えられます。

ちなみに千葉県銚子市には笠上町という地名があり笠上神社が存在します。銚子電鉄の「笠上黒生」駅が最寄駅であり、またその二つ手前には「観音」駅があります。「飯沼山圓福寺(飯沼観音)」の最寄駅で、こちらには行基との縁が伝えられています。どちらもその由来に疱瘡(天然痘)予防・治癒の霊験についての記述は見当たりませんが、「行基」「笠上」の関係性から古くはそうした言い伝えがあったのではないかと推測されます。

笠上の聖地にあった笠上観音

笠上観音が本来あった正確な所在地は「袖ケ浦市久保田字行基谷3382番」辺りとされています。「行基谷」という字(あざ)がまさにその証拠といえるでしょう。同地は「 笠上A遺跡 」と呼ばれ古墳時代後期の竪穴住居が1軒検出されています。

袖ケ浦市の埋蔵文化財発掘調査報告書によると

笠上A遺跡は、笠上川によって形成された標高37mの台地上に所在し、眼下に東京湾が広がるというロケーションにある。当遺跡は、縄文時代・古墳時代の包蔵地として周知されてきた遺跡ではあるが、これまで発掘調査は行われていなかった。遺跡の立地する台地は、かつて笠上(瘡神)の観音と呼ばれ、疱瘡治癒に御利益があるとされた笠上寺(笠上観音堂)が所在した。観音堂の開山は行基の伝説に遡り、江戸時代には遠方から参詣者が集まったというが、観音堂は明治に入り別当寺である正福寺に合併され、現存しない。笠上寺跡採集とされる正嘉2年(1258)7月4日銘の武蔵型板碑が、拓本のみ現存する。

出典:「袖ケ浦市埋蔵文化財発掘調査報告書-千葉県袖ケ浦市 笠上A遺跡(2)」袖ケ浦市教育委員会

同報告書によると「笠上寺があった頃、寺の境内には灯台があった」とのことです。古代より人びとが住む丘であったことから、そこがやがて聖地となり、地域の重要な施設が設けられることになったのでしょう。

ちなみにここから北に延びる台地は「旗立て(はったて)」と呼ばれ源頼朝ゆかりの地として知られています。詳しくはこちらの記事で。

さまざまな歴史が織り込まれた笠上観音正福寺は現在、近隣の菩提寺としてまた初詣の人気のスポットとして人びとに親しまれています。

2021年1月16日撮影

笠上山正福寺(笠上観音)
真言宗智山派
本尊:正観世音菩薩
千葉県袖ケ浦市久保田2329番地

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