千葉県を代表するローリングストーン“ジャガー(地球上での仮の名前:村上牧彦)”さんがじつは長浦にとても縁の深い方であるのをご存じでしょうか。
お生まれは東京北千住ですが、生後間もなく東京大空襲に遭われ、1歳のときに長浦に疎開されて来られました。
もともと避暑地としてご両親ご兄姉が地元の網元の別宅を訪れていたようですが、疎開後お父様が長浦中学校の美術兼数学教師の職を得てからほどなくして新居を構え移住することになったそうです。
著書「ジャガー自伝」には長浦についてこんな記述が見られます。
当時は背後には山、目の前には遠浅の海が広がる小さな漁村といった趣で、東京湾の海っぺりから山間の細かい谷筋に向かって、へばりつくようにしてポツポツと家屋が並び、谷筋には山から流れ込んでくる清流が流れ、岩の裏にはサワガニが棲み着いている。長浦はそんな自然溢れる美しい町だった。
出典:「ジャガー自伝」株式会社イーストプレス
ジャガーさんはその後長浦小学校、長浦中学校、そして木更津第一高等学校(現、木更津高校)へと進学します。
では彼が幼少期から少年期を過ごした家は長浦のどの辺りにあったのでしょう。
国鉄長浦駅から袖ヶ浦方面に海沿いの国道を20分ほど歩いていくと、左手に一本の谷筋が山に向かって伸びている。我が家の新居はその中腹に新しく建てられた。坂道の途中にあるその家は回り廊下のついた平屋の一軒家で、後ろが山で前が庭、そしてその前には畑があった。
出典:「ジャガー自伝」株式会社イーストプレス
※ながうらら注:当時の国道16号線は現在県道287号線となっています。古来よりの名称「房総往還」と呼ばれることも。
著書のほかのページには長浦小学校は「歩いて40分ほどのところ」にあったとのことですから、計算すると駅を中心に長浦小学校とはちょうど反対側の同距離に家があったことになります。
Googleマップで確かめてみると蔵波台1丁目の「いちょう通り」の辺りと考えられます。
著書によると縁側から海が見え、手作りの望遠鏡で庭から建設中の東京タワーが見えたとのことですから、家は海の正面、あるいは海側が開けた斜面にあったと思われます。
そこで当初は「いちょう通り」の南西側にあったのではないかと考えました。
しかし当地の歴史に詳しい方によると「いちょう通り」の南西側は開墾地であり1950年代半ばにはまだ道も家も存在していなかったとのことでした。
その方によるとあの辺りは「西谷(にしのやつ)」と呼び、細い旧道があるのみでした。当時上の「殿畑(とのはた)」には家が何軒かあり、そちらの方が有力ではないか、とのご意見を頂戴しました。そこには飯富につながる旧道があり昔から拓けていたとのことです。
また「殿畑(とのはた)」の地名は蔵波の名主で知られる進藤家の所有地であったことから「殿」の「畑」と名付けられました。ジャガーさんのご両親が避暑地としてお世話になっていたのは「網元の別宅」です。このことから地元の名家である「進藤家」と「網元」のつながりによって家を新築するための土地が融通されたと見てほぼ間違いないでしょう。
「駅から20分ほど」という距離を考慮すると、ジャガーさんが育った家は蔵波の「殿畑(とのはた)」か、あるいは隣りの「西谷(にしのやつ)」の旧道につながる東側斜面の、いずれにしろ海側が開けた場所あったのではないかと思われます。
著書には長浦に関する興味深い情報がたくさん綴られています。
長浦駅から西へ進んだ蔵波川を越えた先、現ファミリーマートのある辺りから駅方面に向け撮られたであろう全身のポートレート写真も、当時の蔵波の様子を伝えてくれ心温まります。
「ジャガー自伝」、長浦好きの方は必読です。
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