ながうらら | むかし長浦で

むかし小学校に潮干狩りの日があった

shiohigarinohi おもいで

かつて長浦の線路の向こうは海で、干潟が広がっていた。そして一部は干拓となっていた。

干拓といわれても、ぴんとこない人が多いだろう。干拓は、海に土を盛り、周囲を堤防で囲み、新たな陸地を生みだすものだ。水路を巡らせた干拓は一面の田んぼとなっていた。

僕の家にも干拓に所有する田があった。水路は深く、道との境目をアシやガマが隠し、小さな子どもにはとても危険な場所だった。だから、たまにしか連れて行ってもらえなかったが、干拓の思い出は鮮明だ。

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あるとき叔父が青いザリガニを見つけた。父といっしょに水門まで走り、のぞくと、そいつがいた。青なんておしとやかなものではない。コバルトブルーのザリガニだった。その日は網を持っていなかったので、後日叔父がつかまえてきてくれた。実家の庭の井戸の脇。たまりに放たれたそいつは僕をとても誇らしい気持ちにしてくれた。

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干拓を囲む堤防の頂上は舗装された道路となっていた。もともとの陸地から四角に海に突き出た干拓の周囲を車でぐるっと周ることができた。陸地から先端までは1km以上はあっただろう。高い堤防から海を見ると、そこは干潟だ。道路は干潟に乗り入れ、初夏には潮干狩りでにぎわった。

広い空から陽光が降りそそぎ、コンクリートの堤防は白くまぶしく光った。ところどころで干からびた貝や魚が磯独特の臭いを放っていた。潮干狩り場に下る短い坂の途中にはカキ氷の屋台がぽつんと立ち、鮮やかな氷旗が潮風に揺れていた。

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長浦小学校はその干拓を正面にし、毎年潮干狩り遠足が催されていた。6学年をふたつに分け、2日間それぞれ丸一日使って行う一大行事だ(筆者の思い違いだったようです。数年前には実施されておらず、特別な計らいだったようです:国鉄親父さんによるコメントを参照)。児童たちは家からどんなに大きな入れ物を持ってきてもよく、身の丈を忘れあさり採りをたのしんだ。丘を越えて帰る子は引きずらなければならず、破れた網からこぼれたあさりが雑木林の通学路に散乱した。

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潮干狩り遠足は僕が2年生のときに終わった。高度成長期の工業地開発の波が干潟にまでおよび干拓もろとも埋め立てられることになったのだ。

最後の日。先生はたしか「この海をよく覚えておきなさい」と言ったように思う。そして僕は忘れられないものを見ることになった。

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ホイッスルが吹かれ、児童たちに潮干狩りの終了が知らされる。あともう少しとダダをこねるわけにはいかない。満ち潮が始まり、うかうかしていると帰り路を失い、溺れ死んでしまう。

でも僕は干潟の砂地にできた潮溜まりに夢中になっていた。直径40~50cmほどの窪みである。そこにイソギンチャクがいた。小さなウミウシがいた。さまざまな海藻が揺れていた。緑、紫、ピンク、紺、黄色。鮮やかに彩られた水のなかの宮殿、あるいは宝石箱か。数匹の小魚がツー、ツーと泳いでいた。

「あっ、竜宮城だ」

一瞬で悟った。もう二度と出会えない。僕はその小さな世界を目に焼け付けようとしゃがみ込んだまま潮溜まりを覗いていた。

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あの干拓の風景はやがて人々の記憶から消えるだろう。なんだかそれはとても惜しい気がするので、こうして記してみた。あまり意味のないことかもしれないが、それならそれでしかたがないと思っている。

寄稿者:凪(久保田)

コメント

  1. 国鉄親父 より:

    昔の長浦のお話、懐かしく拝見しました。自分は、昭和38年まで駅の近くに住んでいました。小学1年生でした。駅前に床屋があったのだけ覚えています。今はないみたいですね。線路の海側は、田んぼが広がっていて今となっては何の面影もありません。そこでは海苔の乾燥日干しの風景もありました。県道沿いにあって階段を登って行った小学校がもうないと、最近知りました。遠い思い出です。

    • nagauranagi より:

      コメントありがとうございます。県道沿いから登校した1年生は下店の横の石段を上り、短い渡り廊下のある“トンネル”を抜けるとすぐ右にUターンし、薄暗い下駄箱室に入りましたね。6年生と共用です。1階の西側に教室がふたつあり、それが1年生用でした。懐かしいですね。よろしかったら、ぜひ駅の近くでの遊びの想い出などご投稿ください。みなさまの想い出の輪がここで広がるとよいなと思っております。貴方様のコメントは当サイト初であります。改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

  2. 国鉄親父 より:

    そうです。お店がありました!揚げパンをたまに買ったのを覚えてます!自分は、国鉄官舎に住んでいて、駅の木更津寄りの線路の前です。田んぼのなかに小川が流れていて、ザリガニやおたまじゃくしを取ってましたねぇ。駅前の道に小さな駄菓子屋さんもありました。駅の山側に、屋根のついた見晴らし台のようなものがあって、そこからちょうど真下に自宅があり、登っては家にいる母親に叫んでましたね。
    今はもう両親もいませんが、これを書いていて涙目です。あの頃の長浦をご存知の方が見てくれていたらうれしいですね。

  3. 国鉄親父 より:


    学校行事としての潮干狩りはやった記憶はないですね。長浦の海はまだ、埋め立て開発前の頃だったと思われます。小さな漁船が何隻もあった内港みたいなところで父親とハゼ釣りしましたね。海の端にコンクリート作りの.沖に伸びた桟橋があって(かなり崩れていて先まで行くのは怖かった)そこで泳ぐ猛者もいましたわ。あと記憶が曖昧ですけど、大きな鳥居があったような記憶があるのですが、、。6歳児の記憶ですからわかりません。

    • nagauranagi より:

      コメントありがとうございます。長浦の昔の風景がたくさんの方の想い出になっている。そしてそれを読み、新たな郷愁が湧いてくる。「あの頃の長浦をご存じの方」。まったく同感です。いまこのやりとりをさせていただいている私も国鉄親父さんの想い出に胸熱です。
      大きな鳥居はたぶん蔵波八幡神社です。その裏手の山の頂上に見晴らし台があります。学校行事としての潮干狩りはそうだったのですね。知りませんでした。あれは干潟がなくなるに際しての特別な計らいだったのかもしれませんね。ハゼはたくさん釣れたのでは。豊かな海でした。

  4. 国鉄親父 より:

    自分が生きているうちに、長浦のよき頃の事を残しておいた方がいいのかな。駅の木更津よりに踏み切りがあって、その先は小道と小さな川があって海に流れ込んでいたと思う。その川のそばに同級生の家があり、大きなカニがたくさんいて、捕まえてましたね。長浦のあの潮干狩りのできる海はもうありません。暮らしが便利になり、発展する事は、すべてを遠い思い出だけのものにしてしまうんですね。

    • nagauranagi より:

      こんばんは。国鉄親父さん。ぜひ思い起こされることをここにコメントください。たくさんの方に当時の景色をお見せください。カニは網か何かを仕掛けたのでしょうか。家に持ち帰り食卓に並んだのでしょうか。私は捕まえたことはありませんが、たまに晩御飯の美味しい味噌汁として出たことがあります。たぶんモクズガニだと思うのですが、けっこう大人になるまでカニといえばアレしか知りませんでした。

  5. 国鉄親父 より:

    そうてすね川だったので、モクズガニでしょうね。遊びで捕まえるだけだったので、食べませんでしたが海に行くと、当時はガザミって呼んでたカニがいてそれは時々味噌汁になってましたね。アサリを取るのは当時はタダだったような気がするのですが、、、。鳥居の近くに豆腐屋があり、母親と来ていたの思い出しました。もうないでしょうね。

    • nagauranagi より:

      こんばんは。コメントありがとうございます。ガザミ!その名前、初めて知りました。そういえば、普段食べるモクズとはちがうカニがあったような記憶もあります。調べたら「江戸前」なんですね。蔵波の海で採れていたとは。勉強になります。そういえば、鳥居の近くに豆腐屋さんがあったような記憶が私もあります。懐かしいですね。

  6. 国鉄親父 より:

    夏が近づいてきて、思い出すのは線路沿いの道のほんと少しの空き地で、ラジオ体操を夏休みの間やってました。当時父親の持っていた、トランジスタラジオを時々持っていって。その夏、同級生がたしか弟と海で遊んでいて、流されたらしくて亡くなったということもありました。湾に通じる水門のそばだったので水門は怖いもののイメージが当時ありましたね。長浦の海岸を埋め立てずに、潮干狩りの場所として残してくれていたらとつくづく思います。

    • nagauranagi より:

      こんばん。コメントありがとうございます。そうですね。僕の地域でも小学生の頃は朝早くラジオ体操がありました。子どもが多く「子供会」という地域の会があり、保護者代表が毎朝ハンコを押してくれました。海で亡くなる子もいましたね。朝礼で校長先生が注意を促したのをよく覚えています。いま潮干狩り場が長浦にあったら東京湾屈指の観光スポットとして栄えていたでしょうね。まあこれは「タラレバ」の話であり、当時の大人たちはそれぞれの事情で判断されたのでしょう。時代の流れは止めようがありません。
      ところで国鉄親父さんに提案です。ここでいただいた長浦駅前のせっかくの情報をコメント欄に埋もれさせておくのはとてももったいないと考えています。そこで「昭和40年前後長浦駅周辺での子ども時代」というタイトル(ご希望があればお教えください)でひとつの記事としてまとめさせていただけないでしょうか。
      将来的にサイト全ページに広告掲載を予定しており、その点は予めご了承いただかないといけないですが、もし問題なければ、ぜひご同意いただければと存じます。
      従来通り、こちらに頂戴したコメントを僕のほうで記事に追加していきます。
      ぜひともご検討ください。よろしくお願いいたします。

      • 国鉄親父 より:

        ご提案、賛同いたします。現在の長浦からは想像もできないあの頃の事を、伝え、残す事は大切なことだと思います。
        当時の長浦駅や潮干狩り場の風景など、人物が入っていますが、写真も何枚かあります。それでよろしければお使いいただいても結構です。自分が没したあとはたぶん何も残らないと思います。こういう形で、お役に立てれば幸いです。

        • nagauranagi より:

          おはようございます。ご快諾ありがとうございます。国鉄親父さんに出会えたこと、ちょっと感動しています。このサイトを始めてよかったです。
          ではさっそくページを作成いたします。いったん仕上がった後ご報告いたしますので、変更ご希望箇所など御座いましたらお教えください。
          またお写真をお持ちとのこと。ぜひ掲載させてください。できれば「場所」「撮影年」「撮影者(著作権者)」「人物との関係及び存命の方」等お分かりになる範囲で結構ですのでお教えいただけると助かります。
          お写真をスキャンまたはスマホ撮影される場合はデータを nagi@nagaurara.com までメール添付でお送りください。お写真をご郵送いただき、こちらでスキャンすることも可能です。その際は可能な限り最短日数でお返しいたします。
          いろいろお手数をお掛けし恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
          今後も末永くお付き合いいただけるとうれしいです。

        • nagauranagi より:

          こんにちは。ただいまページをアップいたしました。 https://nagaurara.com/kokutetsuoyaji/ お手隙のときで結構ですのでご確認ください。変更・追加等ございましたら、お気軽にお申し付けください。

  7. 国鉄親父 より:

    当方の殴り書き的な文面を取り上げていただき恐縮です。
    当時の同級生の方、このサイトを訪ねてくれることを切に願います。お元気でしょうか、皆さん、、、。

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