平安時代、戦に敗れいったん安房国に逃れた源頼朝は、兵を集め鎌倉をめざし北上します。
袖ヶ浦町史によると「治承四年(一一八〇)九月一五、六日ごろ当地方に現れ(*1)」、袖ケ浦市下新田辺りから台地に上がり「三ツ作・大曽根・勝・岩井・下泉・上泉の台地を東進する街道(*1)」を進みました。そしてこの街道こそが「鎌倉街道」と呼ぶのだそうです。
袖ケ浦市上泉字房根付近で一万騎規模まで膨れ上がった頼朝軍はここで2隊にわかれ「一隊は川原井を経て市原の栢橋方面へ、主力となるもう一隊は(中略)立野から市原の国府へ向かったものと思われる(*1)」とのことです。
さてここで注目したいのが「下新田」です。当地のすぐ西側には「飯富」があります。飯富からは多少の起伏はあるものの蔵波、久保田、代宿へ、まさに長浦を縦断する道がありました。
ここで想像力を膨らませたいのが、もしかしたら、一万騎に膨れ上がる前に、飯富の台地へとわかれ海側の路を北上した隊があったのではないかというものです。
じつは代宿及び久保田笠上と市原の間には「房総往還(別名房州道、鎌倉道)」と呼ばれる古道があります。本来であれば旧国道16号(現県道287号線)がそれに当たりますが、かつてこの辺りでは台地の上を通っていたそうです。 無理もありません。台地がすぐさま海と接する場所であり、迂回するのが合理的であったからです。旧国道では昭和半ば頃まで土砂崩れが頻発し、たびたび通行止めになるなど交通の難所でありました。
じつはこの台地を土地の古老は「旗立て(はったて)」と呼びます。 それは源氏の軍がここで一斉に旗(白/一方平家は紅)を立てたからだと言われています。
ではなぜここで旗を上げる必要があったのでしょう。
これも推測ですが一つは東京湾の奥に構える盟友千葉氏に向けた「我ここに至れり」の気勢を上げる合図であったこと(ちょっと遠すぎますが)。 また一つは「頼朝自身は、海上を船で進んだという説(*1)」です。
もしも後者が事実であり、まさに「旗立て(はったて)」の瞬間、沖にその船があったとすると実に感動的な場面が生まれていたことになります。そしてここも「鎌倉街道」であったとする強力な裏付けとなるでしょう。
ながうららでは「長浦散歩」のコーナーで「かまくら街道」を取り上げています。この古道がまさに「旗立て(はったて)」へと続く路なのです。
*1 出典:袖ヶ浦町史 通史編 上巻「頼朝伝承と鎌倉街道」(308頁~310頁)
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